こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと。



vol.1 慣れる

2009.3.1

本番が終わってちょうど一月経った。カフェでの公演で、出演者も二人だけだし普段に比べて規模の小さい(いつも小さいけど)公演だったが、だからと言って準備や苦労がいつもより小さいかというともちろんそんなわけはなく、一週間前にはヒザイミズキと二人でしっかりてんやわんやだった。
カフェのオーナーさんとの打ち合わせがうまくいったことや、関わっている人数が少ないので連絡がそれほど煩雑にならなくてすむことなど良い部分もあったけど、空間を飾るものは自分たちで用意しなければならないし、大詰めだから稽古もおろそかにできない。そんなこんなで僕はクタクタだった。

で、小屋入り(カフェ入り)前日、飾り物の絵をどうしようかと僕は悩んでいた。絵と言っても図鑑とかからコピーした地球の写真をコラージュするだけなんだけど、とりあえず何枚かの写真を並べてみたものの何か物足りない。それでうーんとうなっていたんだけど、とりあえずトイレに行くことにした。用を足していると、ふといいアイデアが浮かんだ。こういうことはよくある。随分悩んでもいい案が出ないのに、料理をしていたり駅で電車を待っていたりすると、ふと解決策が浮かんでくるのだ。この日も勢い込んでトイレを出て机に戻った。やる気満々で作業をしようとしたら机の上が散かっている。汚れたりするのも嫌だから、まず机の上を片付けようとゴミを手に取ってゴミ箱に捨てようと足を踏み出した途端、パリン、という小さな音が足元で聞こえた。僕はすぐに自分の足が何を踏んだのか、そしてそれが何を意味するのかを理解し、絶望的な気分で足元をのぞきこんだ。作った絵を入れる額の、表面を覆うための薄いガラス板が粉々に割れていた。

僕は当然自分を呪ったのだけど、それには理由がもう一つあって、実は僕が壊したのはこれだけじゃないのだ。一週間ほど前、芝居中に流す曲を選んでいたとき何かを取りに行こうと立ち上がったら、ヘッドホンの耳あてをつなぐアームの部分を踏んで折ってしまった。そのヘッドホンは芝居で小道具として使うつもりだったから慌てたけれど、運よくすぐに代用品がみつかったのでなんとか事なきを得た。こんなことがあったから僕の絶望はとても深く、自分を思い切り殴ってやりたい気分だった。

このことをヒザイミズキに話すと、彼女はさすがに学生時代からの付き合いだけあって冷静で、「君ってそういうところあるよね」と短く言って済ませた。額は結局、忙しいというのにわざわざ新宿の世界堂まで行って、代わりのアクリル板を買って来て、とりあえずはつつがなく本番を迎えることができた。

ヒザイミズキのような学生時代からの友達に言わせると、僕の「そういうところ」は周知の事実であるらしく、昔打ち上げの席でマニキュアの除光液を派手にぶちまけたときも、「児玉さんってそういう人ですよね」と言われたことがある。問題なのは、僕自身が自分の「そういうところ」に気づいたのが、ごくごく最近だということだ。僕は何かを理解したり、何かに気づいたりするのが他の人よりも遅いらしく、嫌いなこともしばらく続けてからようやく、ああ僕はこれが嫌いなんだなと気がつく。だから自分が、致命的なミスを厄介なタイミングでやらかすということにも、僕は二十代半ばにしてようやく気づいた。

自分のことを正確に理解するのは結構難しいことだと僕は思っていて、だから気づけただけでも良かったと言えるかも知れない。でもやっぱりもう少し早く知っておきたかったと思うのは、自分の「そういうところ」に直面することに、僕がまだ全然慣れていないからだ。僕は、「そういうところ」に直面するたび深い穴に落ち込んだような気分になる。なにせ「厄介なタイミング」で「致命的なミス」をやらかすのだ。ガラス板のときだって、破片を目にしたとき一瞬気が遠くなった。自分はなんという人間なんだ。生きてる価値なんて、とはまあさすがに思わなかったけれど、とにかくかなり落ち込んだ。もし僕がもっと早くこんな性質を把握し、理解して、慣れていれば、こんなに落ち込まずに済んだんじゃないか。人間はある程度の苦しみには何度か繰り返しているうちに慣れてしまう。こんなもんかと思えるようになる。少なくとも僕はそうだ。けれど僕のこの性質がそうなるまで、まだもう少し時間がかかりそうだ。それまでにあの気分を何度も味あわなければならないかと思うと、ちょっと唖然としてしまう。だって本当にショックだったんだから。
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