こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと



vol.67 近況報告がわりのおはなし2(後編)    

2014.2.19

「つきのつの」(後編)

 彼女の顔は。俺はずっとそれを見ていた。彼女の顔はちょっと変わっていた。彼女の顔はアンバランスだった。もちろん人の顔は多少左右が違う。それは俺だって知ってる。でも彼女の顔はそんなものじゃなかった。まるで違う人の顔を半分に割って一つにはめこんでしまったとしか思えない。左側の目は大きくて瞳がつぶらだった。右の目はほっそりと吊りあがってずるそうに見えた。左側の耳は外側に向かって大きくひっくり返っていた。右の耳は小さく丸まって俺から見えるのは夜の闇みたいな穴だけだった。鼻の穴は左側が大きくて右はつぶれていた。口は左から右に向かって筆ですっと書いたみたいに細く流れた。眉毛も頬も顎の形もみんな全然違った。二つの別のものが一つになっていた。
 俺は馬鹿みたいにずっと見ていた。なぜって、ものすごく美しかったからだ。と言っても一度でいいからお願いしたいとか、ちょっとスカートの裾をまくって踵でぐりぐり横っ面踏みつけてくれたら本当にありがたいんだけどっていうようなタイプじゃなくて、どう言えばいいんだろう、奥があると言うか、どんどん進んでも行く手にあるのはものすごく柔らかいクッションで、それは花の香りみたいないい匂いがして、いつまでも包まれてしまって、どこまで深さがあるかわからないっていうような、自分でも何を言ってるのかよくわからなくなっているけれど、そんなふうに、とびきり美しいのだ。
 だから俺はずっと見ていた。料理が運ばれてきて、彼女が消しゴムみたいなカツオを頬張っているときもずっと見ていた。綺麗に、米粒一つ残さず平らげられた食器が下げられて、女が大きく開いた左の口でお茶を飲んでいるときもずっと見ていた。

 最初は、お茶を啜っている女のこちら側の頬が、かすかに震えたような気がした。びびび、と目に見えるか見えないかというくらいのかすかな震えだったから、俺ははじめ、自分の目の錯覚かと思った。次に、右耳が幼虫が脱皮しようともぞもぞ体を動かすみたいに震えた。それから眉毛がさわやかな風でも吹いたみたいになびいた。さらに厚ぼったい右のまぶたがぴくぴくと震え、狭苦しい鼻の穴がより窮屈になったかと思うと、重い屋根を持ち上げるように広がった。そしてうすい唇が、俺が彼女のアンバランスな顔の中で一目見て一番気に入った、ピンク色のあるかないかくらいの細い唇が、光を浴びたように一際輝いた瞬間、女の顔の右半分がふわりとはがれた。まるで起きぬけで伸びをするように、女の顔の右半分は大きく波打ち、そのまま空中に飛び出した。
 そのとき、俺の頭にはどんな考えもなくて、反応したのは真っ白の俺の腕や足だった。俺は転びそうになりながら席を立って、左半分だけで驚いた顔をしている女に二三歩近づくと、定食屋の薄汚れた床を思い切り踏み切って全身を上に伸ばして跳んだ。女の顔の右半分はくねくねと目に見えない上昇気流をつかまえて飛んでいき、その一番下の、女の顎の先の右半分に向かって俺は思いきり指を伸ばした。俺の目には自分の右の中指の爪の先と、女の顎の右半分の肌色の丘のように膨らんだ部分しか映らなかった。二本の指が柔らかい肉を挟んだ。脇腹がみしみしと音をたてて痛んだ。俺は着地した。女の顔の右半分をつかんだ俺は着地した。手のひらに平らに置いたそれを、俺は左手で撫でるように払った。ほこりなんてつくチャンスはなかったのに、なぜだか俺はそんなことをした。
 それから俺は女に向かって、彼女自身の体の一部を差し出しながらこう言った。
「飛びましたよ」
 女は俺をみつめながら遠慮がちにそれを受け取った。そして彼女は飛んでいった自分の顔の右半分を、波の音しか聞こえない夜の海みたいな部分に丁寧にはめこんだ。彼女の指はほっそりとしていてよく動いた。俺は彼女の作業が終わるのを待った。その時間を、俺はとても長く感じた。
 女の作業は終わった。目の前には元通りの女の顔があった。左右がアンバランスな顔の女。その顔はやっぱりものすごく美しかった。
 彼女はビー玉の鳴るような声で言った。
「いきのいいさかながたべたいの」

 その夜の月は本当に綺麗だった。三日月の一番先っぽに、小さな角が生えてたりして。

おわり
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