こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと



vol.66 近況報告がわりのおはなし2(前編)    

2014.2.14

「つきのつの」(前編)

 曇り空の午後二時四十五分すぎ、俺は定食屋に入った。
 よくある町だった。活力というものがどこにも見当たらないような町だ。駅の掲示板に貼られたポスターはもうだいぶ前のもので、大きな顔で愛想の良い笑顔を道行く人々に、そのときはそこには俺しかいなかったから俺だけに向けているアイドルは、この間おしどり夫婦で知られた顔色の悪い俳優と熟年離婚して芸能ニュースを賑わせていた。
 特にあてもなく駅からの道をぶらぶら歩き商店街の入り口に着いた。アーチ状の、全国津々浦々にあるのと同じ「銀座」と書かれた看板を見上げたとき、その向こうの空がどんよりと曇っていることに俺は気づいた。ここに来るまでは真っ青な空が広がっていたような気がしたけれどよく覚えていない。その空は、この町の背景として随分しっくりきていた。
 その定食屋に入ったのは、表のショーケースにスパゲティナポリタンのサンプルが置いてあったからだ。よし、ここは一つナポリタンでも食ってやろう。この体裁の上がらない町で、体裁の上がらない俺がナポリタンを食う。不幸中の幸いとはこういうことだ。
 結果だけ言えば、俺はナポリタンを食うことができなかった。狭い店内に入りテーブルにつくなり、ナポリタンを一つ、と注文した俺に、白髪混じりの無精ひげをびっしり生やした店主は、そんなものはない、と宣告したのだ。
 こういうとき、その後の対応は二つに分かれる。そんなものはない、とはどういうことだ、だって表に飾ってあったじゃないか、とこだわるのが一つ。もう一つは、流れに身を委ねること。そのとき俺が選んだのは後者だった。単に腹が減っていたせいもある。ただ、こうなることはこの町に一歩足を踏み入れたときから決まっていたのだという気がした。そうである以上、この町の登場人物として、自分もできる限りのことをしなければならない。
 じゃあ、何ならあるの? そう尋ねると店主は、刺身定食しかない、カツオだけど、と答えた。もちろんナポリタンとカツオの刺身との距離は巻尺をあてるまでもなく遠い。けれど俺は軽く頷いて、じゃ、それで、と言った。
 店には小さなテーブルが四つ置かれているだけで、他に客はいなかった。俺の正面の天井の隅にテレビがはめこまれていた。画面の中では中年の女が出題された質問に緊張した面持ちで答えていた。扉を開けたとき、店主はイスに座ってその番組を見ていた。女が正解して、派手なのに寂しい音楽が鳴り、女は小さくガッツポーズをした。次がトラベリングチャンスらしい。
 しばらくして食事が運ばれてきた。俺は皿に並べられたカツオの刺身の数を数えた。三枚だった。断っておくけれど、刺身が運ばれてきたらすぐにそれが何枚あるか数える習慣が俺にあるとは思わないで欲しい。これでも慎み深い家庭でしつけよく育てられたのだ。それは数えるまでもなかった。皿の上に刺身が三枚という事実は、蝶が花に吸い寄せられるようにごく自然に俺の目に留まったのだ。三枚ね、と俺はつぶやいた。そのことに気づいて慌ててまわりを見まわした。もちろん店主は既に厨房に戻っており、俺のこぼれ落ちた真情に耳を貸す者は誰もいなかった。
 カツオの刺身がどんな味だったかについて多くの言葉は尽くさない。ただ小学生のとき友達とはしゃぎあっていて、あまりに感極まって意味もなく口の中に放り込んだ消しゴム、あの味を思い出したとだけ言っておく。

 さて、際限のない愚痴はもう終わりだ。

 入り口の扉が開く音がした。食器はもう片付けられてしまっていて俺の前には何もなかった。振り返ると、のれんをくぐって若い女が入ってきた。一人だった。俺は女を見た。女は俺を見た。一瞬だけ。
 女は入り口で立ち止まって少し店の中を見まわした。背はそんなに高くなかった。のれんをくぐるのにはちょっと頭を下げれば済んだんだな、と俺は思った。女の髪は耳のあたりまでしかなかった。真っ黒で、森の中に生えたキノコみたいに真ん丸だった。女はすたすた歩いて、向かい側の席に俺のほうを向いて座った。
 厨房から店主が出てきた。彼女が口を開く前に、もう時間が、と言った。女は顔を上げた。そして何も言わずに店主をみつめた。沈黙が続いた。少しして店主はため息をついた。刺身定食ならあるよ、カツオだけど。じゃ、それで。女は言った。
 
 つづく
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