こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと



vol.65 近況報告がわりのおはなし1(後編)    

2014.1.25

「声」(後編)

 それからまたしばらく経った。
 その日は朝から調子が悪かった。まず一緒に暮らしている恋人と喧嘩した。理由はどうしようもなくくだらないことで、くだらなすぎて一時間後にはもう思い出せなかった。くだらないことから始まった喧嘩はぐねぐねと森の奥のほうまで進んでお互いのあまり触れられたくないところまでたどり着き、それを泥だらけの手で嫌らしくいじくりまわしあった。長い付き合いだから二人ともどんなふうにいじくれば相手が苛立ち深く傷つくかよくわかっていた。結果として朝から恋人は涙を流し俺はそれを慰める気分にならなかった。考えられるうちでもわりと最低に近い一日の始まりだった。
 天気も良くなかった。朝家を出るとき、空は、一族のお通夜をするために親戚中が集まったみたいに黒っぽい雲だらけで、しかもそのすべてが憂鬱そうな顔をしていた。地下鉄を降りて地上に出たときについに雨が降り出した。俺は雨に濡れながら店に向かった。
 店は大忙しだった。次から次へと湧くように客がやって来て、パスタやらサラダやらを注文しては耳障りな声で騒ぎあった。俺は黙々とフライパンを振り鍋を運んだ。このところずっとこんな調子だった。だから俺は疲れきっていた。苛立っていた。朝の喧嘩も結局のところそれが本当の原因だった。疲れていたからちょっとしたことにかちんときて、疲れていたからずんずん突き進む自分の冷酷な言葉を押し留めることができなかった。
 ごちそうさまと言われても無視した。こんにちはと言われても無視した。聞こえないふりをするための騒音はいくらでもあった。
 午後も遅くなってランチ営業の終了時間をだいぶ過ぎた頃、ようやく最後の客が出て行った。バイトの女の子がありがとうございましたと言うのを遠くで聞きながら、俺はポケットから取り出した煙草に火をつけた。最後の一本だった。煙を吸い込むと頭がくらくらした。まずくてまずくて仕方なかった。
 窓の外は土砂降りだった。マスター、と呼ぶ声に振り返ると、ドアのそばに困ったような顔をした女の子と、真っ黒な体から雨のしずくを滴らせている熊が立っていた。
 俺は黙って二人を眺めた。よほど凶悪な目をしていたのだろう、女の子が怯えたような声で、もうおしまいですよね、と尋ねた。熊は何も言わず女の子の後ろに突っ立っていた。俺は店中に響き渡るような大きな音をたてて煙草の煙を吐き出し、右手でカウンターの席を示した。
 女の子が水とメニューを熊に渡している間に俺は煙草をもみ消して味噌汁の鍋を火にかけた。さっさと選びやがれ、どうせいつもと同じだろ、と胸の中で熊に噛み付いた直後、肉じゃがのランチを一つ、という小さな声が聞こえた。返事をしない俺の代わりに女の子が白々しい大声で、かしこまりました、と言った。
 毎日毎日あほみたいに同じもんばっかり頼みやがって。大体うちは人間のためのカフェなんだよ。お前みたいに、魚やら兎やら人間やらを殺すための爪だの歯だのが生えたけだものに出す料理なんかねえんだよ。今すぐ山へ帰りやがれ。
 胸の中で永遠に続く悪態をついている間に料理は完成し、俺はすべてを熊の前に黙って差し出した。熊は小さな声で、いただきます、と言った。返事をせず、俺は食材を片付け食器洗いを始めた。
 俺は夢中になって食器を洗った。押さえつけ削り取った。ひっかいてひっぱたいた。あっという間に食器は片付いた。シンクはぴかぴかだった。無駄なほどだった。俺は顔を上げなかった。てらてらと光るステンレスの表面に目を釘付けにしたままだった。
 誰かに呼ばれたような気がした。俺は最初聞こえないふりをした。けれど結局、頭を下げたままで言った。
「何かおっしゃいました?」
 ずず、と味噌汁をすする音がして、熊の小さな声が聞こえた。
「いえ、ただ、この男の人は、いい声ですね、と言ったんです」
 俺は耳を澄ましてみた。熊の言う声は聞こえなかった。
「声なんか聞こえますか?」
「ええ。ラジオから、人の声が歌うのが、聞こえるんです」
 俺はもう一度、さっきより注意深く耳を澄ましてみた。すると確かに熊の言う通り、楽器の伴奏と、それに合わせて歌う男の声が聞こえてきた。
 それはとても静かな歌だった。伴奏は最低限の音で組み立てられた、無駄のないものだった。男の声は歌い上げるでもなく、ゆっくりと一つ一つの音を丁寧に、どちらかといえばすぐ目の前にいる人にささやきかけるみたいに歌っていた。その声は熊の声と同じでとても小さいのに、流れてくる言葉は俺の耳にちゃんと届いてきた。
 俺はゆっくりと顔を上げた。よく陽の差している縁側で居眠りをしているような気分だった。誰かが俺の枕元に座っていて、ちょっと微笑みながら小さな声で歌を歌っている。リズムに合わせて俺の頭を優しく撫でてくれている。とても暖かい。
「ねえ、マスター」
 俺ははっとして熊のほうを見た。熊はうつむいたまま、ゆっくりとした口調で言った。
「もし差し支えなければ、その、巨大な音をたててまわっている換気扇のスイッチを、切っていただけませんか? そうすれば、この静かな声が、もっとよく聞こえると思うんです」
 熊は茶碗に残っていた白米を一塊箸でつかんで口の中に入れた。俺は驚いて頭の上に目をやった。それから体を伸ばして、壁についた換気扇のスイッチに触れた。指先に力を込めると、ばたり、という音がして換気扇は止まった。それと同時に、俺のまわりから波が引くみたいにたくさんの音が引き上げていった。
 そして男の声が聞こえた。
 俺はその声に耳を傾けた。歌は、聞こえてきたときと同じようにゆっくりと終わった。俺は深いため息をついた。それからひとり言みたいにつぶやいた。
「ああ、良い歌だ」
 熊はうつむいたまま小さく頷いた。
「はい。良い歌です」
 それから、器に盛られたじゃがいもを一つ、口の中に放り込んだ。
 
 おわり
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