こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと



vol.64 近況報告がわりのおはなし1(中編)    

2014.1.18

「声」(中編)

 熊は常連客になった。やって来るのは決まって他にお客のいないランチ終了間際の時間だった。たまにまだお客が残っているときは、熊は店の前で引き返していった。入り口のドアはガラス張りだったから、目敏く気づいたバイトの女の子がドアから顔を出して謝っているのが見えた。熊は別に怒るわけでもなく、二、三度頷いて帰っていく。俺はその背中に頭を下げた。
 熊が何を気に入って俺の店にやってくるのかはわからないままだった。人がその店を気に入る理由は様々だ。単純に味がいいという人もいるし、内装がおしゃれだという人もいる。もしかしたらマスターの人柄かもしれませんよ、とバイトの女の子がわりと真剣な目をして言った。俺にはあまり心当たりがなかった。熊はあの通り無口だし、いつも食事を終えるとすぐに帰って行ったから話をしたこともほとんどない。彼女は、意外に熊好きする顔なのかもしれませんよ、とその意見に固執したが、俺はどちらかと言うと痩せているし、体毛も薄いから熊の好みそうな要素は見当たらない気がした。
 そのうち俺たちは考えるのをやめた。気に入ってくれるぶんにはこちらとしては大歓迎だし、今のところ熊は大人しくランチを食べているだけで、気が狂ったみたいな大声で喚くみたいに喋りまくっているOLとか、水がぬるいだの店の中が湿っぽいだの細かいことをねちねち言い続けている中年男とかに比べれば、すごく良いお客じゃないかということになったのだ。

 けれどそれからしばらくして、その理由の一つかもしれないことに、俺は気がついた。
 いつものように人のいない時間にやって来た熊は食事をしていた。そのとき食べていたのも肉じゃがのランチだった。肉じゃがは熊のお気に召したようで、わりと頻繁に注文した。
 俺はシンクで洗い物を片付けていた。盛大に流していた水の音で、最初は熊の言ったことがよく聞こえなかった。俺は水を止めた。
「何かおっしゃいましたか?」
 すると熊は味噌汁を一口啜ってから小さな声でこう言った。
「いえ、この女性は、いい声ですねって言ったんです」
 俺は耳を澄ませた。確かに女性の声が聞こえる。
「ああ、ラジオですか」
「はい」
 つけっ放しのラジオから、落ち着いた女性の声が流れていた。彼女はリスナーから送られてきた葉書を読んでいるところで、滑稽な失敗談に、声を上げて笑っていた。
 熊の言うように、確かに良い声だった。少し低くて、ゆったりと話した。
「本当ですね。毎日聞いてるけど、あまり気に留めてませんでした」
「私たち熊は皆、人の声が好きなんです」
 熊は油揚げを口に運びながら続けた。
「人の声は、柔らかくて、丸くて、気持ちの良い音です。だから時々私たちは、人の声にひかれて山を下りてしまうことがあります。なにしろ熊の出す声は、ぎゃあ、だの、ごう、だの、耳障りな音ばかりですから」
 なるほど、と俺は言った。
 それからしばらく、俺と熊は黙ってラジオから流れてくる声に耳を傾けていた。熊は箸を使ってじゃがいもを口に運んでいた。俺はいろいろなことを考えていた。山を下りるのは、腹が減ったときだけじゃないんだな、とか、熊の一人称は、私なんだな、とか。
 そのうちまた食器洗いに戻ろうと水道の蛇口を開けようとして俺は手を止めた。ラジオからはまだ女性の声が聞こえていた。まあいいか、と俺は思った。食器を洗うのは熊が食事を終えてからでも遅くない。
 俺はシンクに寄りかかって、熊が肉じゃがを食べるのをぼんやり眺めていた。

つづく
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