こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと



vol.63 近況報告がわりのおはなし1(前編)   

2014.1.11

「声」(前編)

 熊が俺の店にやって来た。
 熊はドアを開けて中に入ってくると、ほとんど首を動かさずに目だけでテーブルを見渡してから、まっすぐ歩いてきてカウンターの席に座った。
 ランチのピークはだいぶ前に過ぎていて、客は他に誰もいなかった。そろそろ準備中の看板を出そうかと思っていたところだった。
 気持ちの良い春の日だった。朝から名前のわからない鳥が枝から枝へと楽しそうに飛び移っていた。鳴き声はうるさいくらいだった。
 いらっしゃいませ、と俺は言った。
 熊はちょっと頷いて見せた。
 その日はバイトの女の子が休みだった。お芝居をやっている子で、どうしても外せない打ち合わせが入ってしまったということだった。メニューはもう下げてしまっていた。俺はガラスのコップに水を注ぎメニューを持って厨房を出て熊に歩み寄った。コップをカウンターの上に置きメニューを手渡すとき、熊はささやくように、ありがとう、と言った。
 熊が注文したのは生姜焼きのランチだった。俺はたれに漬け込んだ豚肉をタッパーから取り出してフライパンの上に乗せた。醤油の甘く香ばしい匂いが店の中に流れ出した。
 俺が料理している間、熊は何も言わずじっと黙り込んでいた。真っ黒で固そうな毛がみっしりと生えた両手、正確に言えば両前足なんだろうが、カウンターの上に置いたその両手をうつむいてじっと見つめていた。俺は肉の焼き加減を見たり添え物のキャベツを刻みながら、その様子をちらちら見ていた。熊はガラスのコップを二本の両手のひらで器用に挟み込んで水を飲んだ。そりゃそうだろうな、と俺は思った。片手でコップをつかめるほどあの禍々しい爪を備えた手は柔らかくできてはいないようだった。
 にも関わらず、熊は俺の予想を上回る行動に出た。箸を使ったのだ。ほとんど切れ込みもない指でどうやってつかんでいるのかよくわからなかったが、なにしろあんまり無遠慮にじろじろ見るのはいくら熊とはいえ失礼だろうと思ってちゃんと観察できなかったのだ、とにかく熊の手の中で、あまりにも小さく見える木製の箸がちょこまかと動き回っていたのだ。
 熊はごく淡々と生姜焼きを平らげていった。その間一言も発しなかったし、備え付けの雑誌をめくることもなかった。俺も何も言わず洗い物を済ませ食材の残りを冷蔵庫の中にしまった。店の中は本当に静かだった。つけっ放しにしているラジオの中で喋り続けている女性パーソナリティさえ、俺たちに遠慮してささやき声で喋っているような気がした。
 会計を終えて店を出るとき、熊はやっぱり小さな声で、おいしかったです、と言った。俺ははきはきと、ありがとうございました、と言った。

 次に熊がやって来たのは、それから二日後だった。
 前回と同様ランチの終了時間ぎりぎりで、他に客はいなかった。前回同様熊は目だけで店の中を見渡し、カウンターの席についた。
 違っていたのは、バイトの女の子がいたことだ。
 熊がやって来たことは前の日に彼女に話してあった。彼女はとても驚いていた。熊がランチを食べているところなんて見たことありません、と言うから、俺だって初めてだよ、と答えた。なんでうちなんでしょう。彼女は腕組みをして考え込んだ。俺も一緒になって考えてみた。しばらくして二人で目を合わせ、黙って首を横に振り合った。
 とにかく熊がやって来ても絶対騒ぎ立てないこと。向こうはただ食事をしに来ているだけなのだから、こちらも他のお客と同じように接すること。俺は彼女にそう言い聞かせた。
 彼女はわからず屋じゃないし頭の良い子だから、俺の言うことをすぐに理解してくれた。熊が店に入ってきたとき、彼女の目はLサイズの卵のように、口はロコモコ用の丼のようにまん丸に開かれていたけど、かろうじて声を上げることはなく、カウンターに腰掛けた熊の前に水の入ったコップとメニューを置いた。
 しばらくメニューに目を落としていた熊は、厨房の俺に直接言った。
「肉じゃがのランチをお願いします」
 俺は簡潔に、かしこまりました、と答えた。
 肉じゃがの入った鍋を火にかけてから顔を上げると、前回同様祈りを捧げるみたいにうつむいている熊の背後で、バイトの女の子が口をぱくぱくさせているのが見えた。声を出さずに彼女が言っていることはすぐにわかった。
 くまがにくじゃが。
 俺が出した肉じゃがを熊は静かに平らげた。そして会計を済ませると、おいしかったです、と言って去って行った。俺とバイトの女の子は声を揃えて、ありがとうございました、と言った。

つづく
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