こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと。



vol.6 見てる

2009.4.20

夜稽古を終えて、稽古場の建物を出て自転車置き場に向かった。荷物をかごに入れて、自転車を押して道に出る。自転車にまたがってゆっくりとペダルを踏みながら後ろを振り向くと遠くにみんなが帰っていく背中が小さく見える。その横に、近づいてくる自転車があった。のってるのはスーツ姿の若いサラリーマンで、眼鏡をかけていた。なんてこともなくその人の顔を見たら驚いた。知り合いにとてもよく似てるのだ。サラリーマンは、黒縁の眼鏡をかけてほっそりした体つきをしていて、イヤホンで音楽を聴きながら自転車を漕いでいる。知り合いも、いつも黒縁の眼鏡をかけていて、ガリガリに痩せて柳のようだった。僕はその人の顔を凝視した。どう考えても知り合いにしか見えない。しかもこの近所にその知り合いは住んでいる。ここで出会う可能性はなくはない。声をかけようとした瞬間、まったくの別人だということがわかって僕は慌てて目を逸らした。サラリーマンはあまりに僕が凝視するものだからどぎまぎしたような表情を浮かべ、もしかするとその表情のせいで、別人だということがわかったのかもしれない。知り合いは、そういうときもう少し不機嫌そうな顔をするのだ。ああ、声をかけないでよかった。夜道だったし、稽古着のオレンジ色のジャージを着て知らない男が話しかけてきたら、これは事件になりかねない。ほっとしながら、僕は家に向かった。

次の日の昼間、僕はぶらぶら道を歩いていた。そこは車どおりの多い道で、横断歩道を渡って左折した僕の左手に、逆方向に向かう黄色いタクシーが信号待ちで止まった。僕はなんとなくタクシーのほうを見た。タクシーの後部座席には、二人の大人が座っていた。一人はおじさんでスーツを着て向こう側に座っている。手前に座っているのはおばあさんで、小柄なのか、窓からは顎から上がぎりぎり見えるくらいだった。僕は歩きながらタクシーを見ていた。次の瞬間、おばあさんと目があった。おばあさんは、なんというか、とてもかわいらしい表情を浮かべていた。笑っていたのではない。その顔には、なんの表情も浮かんでなかった。ぼんやりした目で、僕のほうを眺めているだけだった。もしかしたらその目には僕の姿が映っているだけで、おばあさんは僕のことにまったく気づいていないのかもしれない。そういう表情だった。僕はその表情から目が離せなくて、それでも足は止めず、おばあさんの顔を見ていた。そのうち信号が変わり、おばあさんを乗せたタクシーは走り去っていった。

この話にオチはない。実はそのサラリーマンとおばあさんが血がつながっていたとか、そんな劇的な展開は何もない。そういうドラマチックなことは、あまり僕の周りでは起こらない。僕がそういうものを寄せ付けないたちなのか、台本なんか書いていながら、ドラマや映画のようなことは頭の中で起こるだけで、現実の僕の周りはまったく地味で淡々としている。ただ、僕は、連続する二日間に起きたこの二つの出来事を妙にはっきりと覚えていて、なんとなく忘れることができなかった。それはなぜかと考えたときに、ああ、表情だな、と僕は思った。若いサラリーマンとおばあさんという、何の共通点もない二人の、それぞれの表情が、僕は忘れられないのだ。まったく共通していないのはその表情についても同じで、若いサラリーマンは見知らぬ男に凝視されてどぎまぎした表情をしていたし、おばあさんは僕の視線に気づいているのか、ぼんやりとした無表情だった。でもどちらも同じように僕の印象に強く残っているのだ。

多分、共通していたのは、とてもいろいろなものを含んでいる表情だったということだ。その先に、その中に、感情や状況や時間を、とてもたくさん含んでいる。そう僕は思ったのだ。そしてそれを僕が凝視している。その瞬間を、僕はとても豊かなものだと思った。上手く説明はできないんだけど、とてもいろいろなことを、現実より少し架空のものに近い何かを、その瞬間僕はとてもたくさん経験した。そう思ったのだ。ちょっとややこしいかもしれないけど、つまり、とても楽しい瞬間だったと、そう言いたいのだ。
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