こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと



vol.33 夜に歌う  

2010.7.19

時々、半年か一年に一度くらい、夜、お酒を飲みながらよくよく音楽を聴いてみることがある。僕は特別に音楽について詳しいわけではないけれど、もちろん好きなバンドなんかはあるし、日頃気分にあわせてCDをかけたりする。でも、よくよく聴いてみるというのはそれとは少し違っていて、まず、CD棚とコンポの前に陣取り、好きなCDを何枚も目の前に並べる。で、歌詞カードを眺めたりして聴きたい曲を決め、順番にかけていく。いつもならいちいちCDをとりかえるのも面倒だし、一度かければアルバムを聴き終えるまでそれを流し続けるのだけど、このときは、本当に好きな、そのときに聴きたい曲だけを流すと、すぐにCDを取り替えてまた別の、本当に聴きたい曲を流していく。それを二時間くらい続ける。

それを始めるきっかけは自分でもよくわからない。でも大体お酒を飲んだときのような気がする。ふと、ああ、音楽が聴きたい、と思うのだ。で、おもむろにCDを抜き出し始める。僕は楽器を弾けないし、音楽の歴史やら詳しいことは何も知らない。だから、このベースが最高、とかこのアレンジがいいよね、とかそういう難しいことはよくわからない。要はメロディーと、歌詞が聴きたいというのが、僕の音楽が聴きたいということの中身だ。なおかつそれを歌いたい、というのも加わってくる。だからコンポの目の前に陣取って、歌詞カードを片手に、低い声で歌を歌う。ただの酔っ払いだ。でも、近所迷惑になるような大声を出してはいけないということぐらいは心得ている。そんな酔っ払い具合だ。

これが大変に気持ちいい。次々とCDを取り替えて流していく。アルバムは一枚通して聴いてこそだなんていう玄人っぽい意見なんて無視だ。とにかく好きな曲ばかり聴く。酔っ払ってるからCDを取り替える手間なんて少しも気にならない。

ひとしきりそれをやると、なんだか放心状態みたいになる。もやもやしたものがすっきり晴れていることに気づく。で、布団に入り、文庫本を読み始める。最近は、どうにも気分にぴったりくる小説が見つからず、一度読んだ本なんかを再読したりしていたのだけど、だいぶ前に買ってまだ読んでいなかった須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』をなんのきなしに読み始めた。僕が須賀敦子を知ったのはごくごく最近だ。しかもテレビのドキュメンタリーで。もちろん本屋に並んでいる上品な、しっとりとした表紙の文庫本の存在は知っていた。でも自分には関係ないと思っていた。僕はイタリアに興味はないし、なんだか高尚なことが書かれているような気がして敬遠していたのだ。でも一度古本屋でみつけた『霧の向こうに住みたい』を読んで、なんだかちょっといい感じだぞ、と思ったのだ。今まであまり刺激されてこなかった部分が刺激されている。そんな感じだった。その勢いで、彼女が翻訳したナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』も読んだ。彼女は自分のエッセイの中でさかんにこの小説の素晴らしさを語っていて、そんなに面白いのなら、と読んでみたくなったのだ。『ある家族の会話』は、確かに面白い小説だった。特に作者の父親のキャラクターがよかった。頑固で偏見に満ちていて、でもどうにも憎めない。

そんなふうな流れで、僕は『ヴェネツィアの宿』を読み始めて、あれ、と思った。『ヴェネツィアの宿』のなかには須賀敦子の父親のことが書かれているのだけど、その父親が、『ある家族の会話』の父親に似ているような気がしたのだ。わがままで、好き勝手なことをするのだけれど、やはりどこか憎めない。もしかしたら、と僕は思った。須賀敦子はこの父親のことが好きで、『ある家族の会話』を愛したのかもしれない。

まあでもそんなことはどうでもいい。『ヴェネツィアの宿』はとてもいいエッセイ集で、蒸し暑い夜を、僕はとても気持ちよく過ごせたのだから。
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