こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと。



vol.21 冬になる前に  

2009.11.17

もう11月も半ばを過ぎ、あと一月半もすれば今年も終わるというのに東京はあまり寒くならない。最近になってようやく身をすくめるような寒さの日があったけれど、それでもまだ暖かい方だろう。今年は暖冬らしいという噂をどこかで聞いた。

そういう気候的な影響もあるのか、どうも今年も終わり始めているという感慨が起こることがない。例年なら厳しい寒さが僕らの背中を来年のほうへと押していくようなかんじがあるのに、今年にはまだそういう差し迫った感じがない。僕にとってその一つの例が手帳だ。この時期になると毎年、僕はワタリウム美術館に手帳を買いに行く。ワタリウム美術館のミュージアムショップでオリジナルの手帳を売っていて、僕はもう7、8年もそこで手帳を買っている。毎年この時期が来ると新しい年の手帳を選ぶ喜びと共に、今年も終わっていくんだなあという気持ちの盛り上がりを感じる。けれど今年はそういう感慨が起こることはなかった。もちろん手帳は入念に選んだし、選んだものに対する満足はある。でも、来年はこの手帳で一年を過ごすのだという軽い興奮のようなものがなくて、わりと淡々とした気分で手帳を買ってしまった。それが何に起因することなのかわからないけれど、多分年が終わっていくという盛り上がりがまだ生まれてないからだと思う。

年の変わり目なんて人間が勝手に作った節目に過ぎず、そんなもので盛り上がったり森下がったりするのはナンセンスだという意見もあるだろうし、それはそれでもっともだと思う。けれど、手帳を買ったときの淡々とした気分を思って、僕は少し寂しい気持ちになった。それはきっと手帳を買うというイベントに慣れてしまったということもあるのだと思う。そういうことも含めて、なんだか寂しい。家に帰って、これまで買った手帳を並べて眺めてみたりした。するとそのときの気分がよみがえってきて、またその興奮がない現在を思ってやるせない気分になった。

まあだいぶセンチメンタルな話ではあるのだけれど、なんで僕はこんなに寂しい気持ちになるのだろうと少し考えてみた。それは多分、ずっと変わり続けていくことに対するよるべなさのためだと思う。僕らは、あるいは僕らを取り巻く世界は、多かれ少なかれずっと変わり続けている。現在が一番だからと言って今のままでいることは決して許されない。昔はよかったといって同じことをしようとしてもそれは純粋な昔ではなく、昔風の現在に過ぎない。それは、僕らの上に時間が流れている以上どうすることもできないのだ。前好きだったことも、少しずつ好きじゃなくなる。前やってたことも、少しずつやらなくなってくる。すべてのことは大体この繰り返しだ。絶対的に固定されたものなんてない。それはいい悪いの問題ではなく、そういうものなのだ。

だからこそ僕らは絶対的な、不変の何かが欲しくなる。自分は絶対これが好きであるとか、これをすれば必ず気分がよくなるとか、そういうものがほしくなる。そういうものがあると思わなければ、あまりにも寄る辺がなさ過ぎる。実際そういうものを見つけることはできる。自分なりの黄金律を見つけ出し、それを宝物のように大切にしようとする。僕にとって毎年同じ場所で手帳を買うという行為がそうだった。僕は毎年ワタリウム美術館に行くととても気分がよかったし、大げさに言えば、一年間様々な場所で様々な感情を抱いてきた自分が、その場所に帰ってきたという気持ちがあった。そしてそれは来年もまた、この場所がそういう場所であってくれるという安心感でもあったのだ。

それがあるとき消えてなくなる。急速に色あせる。そんなはずはない、と何度も自分に言い聞かせる。けれど失われてしまったものは戻らない。僕がその行為に、その場所に抱いていた感情は消えてしまったのだ。僕は変わってしまった。これからも変わり続けるだろう。また、僕はなくなったものの隙間を埋める何かを探さなければならない。そういう寂しさだったのではないかと、僕は思った。
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