こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと。



vol.19 通路の先に何を見るか  

2009.10.29

『至るところで 心を集めよ 立っていよ』という不思議なタイトルの写真集を買った。買いたい本があって本屋に行って美術書のコーナーをブラブラしているとき、このタイトルが目に入って気になって手に取ってみた。中をぱらぱらめくると、なんというか、微妙な引っ掛かりのようなものを感じた。その引っ掛かりがなんなのかよくわからなかったけれど、もし買ったとしたらそのときにゆっくり見てその引っ掛かりについて考えたいと思って全部は見ずに棚に戻した。僕はあんまり写真集は買わない。写真自体ものすごく好きというわけではないし、なにより写真集は日頃文庫本しか買わない僕にとっては高価な買い物だ。この写真集も3500円もするし、だから迷った末に結局買わなかった。

また別の日に別の本屋へ行った。この写真集のことが頭に残っていて、僕はそのとき写真家の名前もタイトルもあやふやにしか覚えてなかったのだけれど、とにかく美術書のコーナーに行った。すると棚の目立つところにその写真集が置いてあった。僕はここでも迷った。ちょっと迷いすぎだろというくらい迷った。近くの売り場をブラブラと一周回ったりした。その末、僕はようやくその写真集を買うことに決めた。あのとき感じた引っ掛かりがどうしても気になって仕方なかったのだ。

写真家の名前は清野賀子さんという。僕は家に帰るなり写真集を開いた。なぜかしゃっくりが止まらなくなり集中できてないような気がしたのでしゃっくりを止めてからもう一度見た。写っているのはこれといって特別なことのない日常的な風景だ。住宅地の道やトラックが置かれている駐車場、道端の草むらや花。人も何枚か写っていて、加工などされずに服も着てちゃんと人として写っている。あえていえば風景の中にほとんど人の姿がないことくらいか。けれど、僕の胸にはやはり引っ掛かりが残っている。僕にはそれに言葉を与えることがなかなかできないけれど、あえていえば、これから何かが起こるという予感に似た感覚だ。ものをみてこういう気持ちになるのはあまりない。僕の手元にある写真集はあと一冊しかなく、それは荒木経惟の『センチメンタルな旅 冬の旅』だ。この写真集が僕に与えたものはとてもはっきりしている。僕はこの写真集を初めて本屋で立ち読みしたとき、涙が出そうになった。どうしてもページを繰る指をとめることができず、最後まで見てしまった。この写真集は僕の心を激しく揺り動かした。わしづかみにした。けれど『至るところで 心を集めよ 立っていよ』にはそういうはっきりとした爪あとのようなものは残さなかった。ただ特別なことを体験しているという実感だけが残った。

その理由が、最後に載せられた写真家の言葉を読んでなんとなくわかった気がした。少し引用しようと思う。

『もう「希望」を消費するだけの写真は成立しない。細い通路を見出していく作業。写真の意味があるとすれば、「通路」みたいなものを作ることができたときだ。「通路」のようなものが開かれ、その先にあるものは見る人が決める。あるいは、閉じているのではなく、開かれているということ。ある種のすがすがしさのようなものがあるといいなと思う』

「通路」という言葉を聞いて、僕はこの写真集を見て自分が体験したものを言葉にしてもらった気がした。僕は確かにどこかを通り抜けていた。つまりリアルタイムで何かを体験していた。そこにあるのはなんらかの意味や感情ではなく、どちらかというと通り過ぎていく風景に似たものだ。しかもそれらはそのつど何かを表現するわけではない。多分、喚起するのだ。そしてその喚起されるものは、人それぞれ違う。

僕らはその「通路」を通ってある風景の中に出る。いや、出て行かないのかもしれない。僕らがいるのはトンネルのような四方を囲まれた細い通路で、ずっと遠くの方に光が見えてそこが出口だということがわかっている。僕らは出口に向かって歩く。出口の外の風景に向かって。この写真が与えてくれるのは、その、何かに向かって歩き続けているという体験だ。それはとてもスリリングな体験だ。与えられる意味や感動はない。その先に何を見て何を感じるかはとても個人的なことだ。何を見たのかという答えを出す必要すらない。そこにいて、そこにいることを味わえばいいのだ。

僕はその通路を通ってある風景に出会った。それは僕だけの秘密だ。そういう秘密が持てるということは、なんと自由で豊かなことだろうと僕は思った。
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