こだまのうんぬんかんぬん


あさかめの作家・演出家、児玉洋平の日常と考えたこと。



vol.18 実験的な作品を観ること  

2009.10.19

東京都現代美術館の常設展を観て来た。同時にやっていたのがディズニー関連の展示で、なおかつそれが最終日だったらしく、この美術館は天井も高いしとても広々としているところが僕は好きなのだけれど、その日はもうそんなこと感じさせないくらいものすごい人出だった。ここは名前の通り僕の好きな現代美術の展示をわりと多くやっているから気が向くと行くんだけど、やっぱりそういう展示だけじゃお客が来ないのかたまにジブリのやつとかこういうのをやって回収しているみたいだ。そういう混雑に出くわすたび、このうちの半分でいいから現代美術にも興味を持ってくれれば都内でもっとたくさんの展示が観られるかもしれないと思ったりする。
この日の展示は『夏の遊び』と題していろいろな作家の作品が展示されていた。ここの常設展は量も多いしバラエティにも富んでいていつも見ごたえがあって楽しい。何度か見たことのあるやつもあったけれど、すっかり満腹状態になった。

その中に、島袋道浩さんの一連の作品が展示されていた。この人の作品は以前何度か観たことがある。生きた蛸を海に帰すとか、片方の眉毛を剃ってヨーロッパを旅するとか、そういうパフォーマンスというか実験をそのまま作品にする人で、展示されているのはその結果報告というか、大きなパネルに実験風景を写した写真と文章が添えられたものや映像だった。

実は、僕は島袋さんの作品にそれほど興味がなかった。今まで観たのも同じように大きなパネルや映像だったんだけど、いつも僕はその前を素通りするか、少し覗くだけですぐに次へ進むのだった。それには理由があって、それは、実験的な作品に対するわからなさだった。実験的な作品というのは美術に限らずいろいろなジャンルに存在する。そのどれに接しても僕の中には少しの困惑と割り切れなさが残るだけだった。ものすごく乱暴に言うと、それは、「結局なんだったんだろう」ということだと思う。断っておくけれど、僕の中に実験的な作品を否定する気持ちがあるわけではない。僕は基本的に芸術作品にはどのようなあり方も許されていると思う。それによく考えてみればどの作品にも多かれ少なかれ実験的な部分は含まれているわけで、結局それが物語性の強いものだろうが実験的な要素が強いものだろうが、美しかったり面白かったりすればそれでいいのだ。ただ、残念ながら僕は今まで心の底から面白いと思える実験的な作品に出会ったことがなかった。だから島袋さんの作品に関しても、なぜこれが芸術作品として評価されるのだろうと思ったりしてた。

でもその日島袋さんの作品をじっくり観ていて、自分の中で何かがむくむくと頭をもたげてくるのを感じた。僕が最初にそれを感じたのはサルに贈り物を贈るという作品だ。島袋さんはサルに贈り物をしようと思い立ち、何がいいだろうかと考える。光るものが好きらしいから鏡を入れてみようと思ったり、飼育員との間で見られる餌でつながる関係を脱したいから食べ物を与えるのはやめようと考えたり、とにかくいろんなことを考える。で、そのうち、サルに贈り物を贈ろうなんて、自分の独りよがりなんじゃないだろうかと考え始める。僕はここでふきだしてしまった。島袋さんは、サルは本当は贈り物なんて欲しくないんじゃないかと考え、一人であれこれ考えてる自分が嫌になる。なおも考えて、結局動物園かなんかのサルの群れの中に考え抜いた贈り物を置くのだ。結果は、まあ隠すようなことじゃないんだけど機会があったら作品を見てみて欲しい。

僕はこの作品を、とても面白いと感じた。それは、この実験が普遍的な自己と他者とのあり方に通じていると思ったからだ。人と人が出会おうとしたとき、やはり同じようにああでもないこうでもないと考える。そしてそうやって考えたことが独りよがりであることも往々にしてある。そして結末もまた、コミュニケーションを結ぼうとしたときにままある風景である。つまり島袋さんは、サルに贈り物をするというたった一つのアイデアで、普遍的な問題にまで手を伸ばしてしまったのだ。

ああ、面白い実験的な作品というのはあるのだな、と僕はその日初めて思った。大切なのは研ぎ澄まされたユニークなアイデアと、実験に対する真摯な態度だ。島袋さんは完全にサルと同じ目線でものを考えていた。その視線がなければこんなところにまで到達しなかったと思う。個的なアイデアから普遍的な認識にまで到達すること。それはどのようなジャンルの作品にも通じることなのだ。そう思って僕は、その日とても気分が良かった。
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